英語の音声に関する雑記帳

英語の発音について徒然と


『改訂新版 初級英語音声学』レビュー

竹林滋・清水あつ子・斎藤弘子『改訂新版 初級英語音声学』(大修館書店、2013年)

初級英語音声学

1991年に刊行された同書の、22年ぶりの改訂版。22年前の初版には、僕も「原稿作成協力者」として名前を載せてもらっています。筆頭著者の故・竹林滋先生は、僕が東京外国語大学を卒業したのと同じタイミングで定年退官されたため、大学院で正式に指導を受けるということはできなかったのですが、僕の大学院時代、月に1回のペースでこの本の執筆会議を開いて、僕を含む門下の大学院生に原稿整理をさせることで、実質的に指導をして下さったという、思い出深い本です。僕たちが実際に携わったのは、例文作りでした。

こういう、仕事を通して指導するというやり方を、その後も竹林先生は続けて下さり、僕の場合、この本の後は『カレッジライトハウス英和辞典』(研究社、1995年)の発音執筆、ピーター・ラディフォギッド『音声学概説』(大修館書店、1999年)の共同訳、『新英和大辞典』第6版(研究社、2002年)の発音執筆という形で指導を受けました。

この改訂新版に関しては、前書きによれば竹林先生の指導の下、数年前から作業を続けていたそうです。竹林先生は2011年3月に逝去されたため、その後は清水先生と斎藤先生の2人で仕事を進め、今年の9月に刊行されました。

改訂の主眼は、主に内容の削減にあったようです。確かに初版は、元々の親版たる竹林滋『英語音声学入門』(大修館書店、1982年)に比べれば簡略な内容であったとは言え、その後同書が改訂・内容削減されて竹林滋・斎藤弘子『改訂新版 英語音声学入門』(大修館書店、1998年。CD付き新装版2008年)になったものと比べると(紙面に余裕を持たせているという理由があるにせよ)ページ数は似たようなものでした。僕が実際に英語音声学の授業で使ってみた時も、前半の分節音(母音と子音)の部分の分量がいささか多く、1年間の授業を前期・後期に分けた場合に、前期で子音までを全部終わらせるのが難しく、かといって子音を後期に回すと最後のイントネーションを扱う時間がろくに残らない、というジレンマに苦しんだという記憶があります。

大修館書店の他の英語音声学の教科書と同じく、この改訂新版は音声CD付属になりました。(この種の本をCD付きにしたのは、大修館では『日本人のための英語音声学レッスン』が端緒だったというのが、地味ながら僕の自慢の一つです。)但し、『初級英語音声学』は、他の本のようにこれまで別売りカセットテープだったものをCD化して付属させるだけの“新装版”にせずに内容に手を入れたというだけではなく、CDの内容も新たに録音し直されたものです。これは内容を徹底的に改訂するためには必然のことでした。

録音で採用された話者は、アメリカのオクラホマ州出身の男性1人です。初版はカリフォルニア州南部出身の男性とオハイオ州中部出身の女性の2人でした。2人に比べて、1人では続けて聞くとどうしても単調に響くというのは仕方がないことですが、それは別にしても、日本語話者にとっての英語音声のように新しい音を学ぶ場合、なるべく多人数の音を聞かせる方が得策だったと思います。1人の音声しか聞かせないと、物理音の中から、言語的に無意味な“話者性”とでもいうべきものを聞き手が捨象するのが難しくなってしまう可能性があるからです。もちろん実際には、学習者は何もこの本の付属CDだけでしか英語の音声に触れないわけではないので、現実的には問題はないとは思いますが…。

旧版では /ts, dz, tr, dr/ を「破擦音」のセクションの中でそれぞれ独立した項目として扱っていました。これは別段、これらが英語の独立した音素だと考えていたわけではなく、日本語話者にとっては、これらを単独の音として扱った方がわかりやすいという判断をしていたからです(そのために、これらの音連続を表す記号には合字を使っていたほどです)。

しかし、恐らくは、単音の項目数を減らすことで全体の分量を減らそうとの判断が行われた結果として、これらは独立した扱いではなくなりました。他方では「音の連続」の章も内容を縮小して実質的には音節の話だけになり、『入門』のようにそこで子音連続を扱うこともできなくなったため、これらを含めて子音連続については、個々の音素の説明の中、あるいは用例の中で注記が入るという扱いになりました。

この変更に関しては、授業で教授者が説明しながら使うという前提があれば問題は少ないでしょう。事実、この本はそういう使われ方が大部分だと思われるからです。しかし、独習者にとっては大事な説明がやや見つけにくくなったことを意味するため、注意深く読まないと見落としてしまう可能性もあるかも知れません。

内容について、英語の変化、音声学の進展を反映させようとしたとあるのですが、そのあたりについては、保守的であるという印象を受けました。本書は、初版でアメリカ英語だけを扱うと言いながら現実には残っていたイギリス発音に関する注記をなくして、完全にアメリカ発音のみを扱うようになったのですが、そうであるなら、short o と呼ばれる /ɑ/ と broad a と呼ばれることもある /ɑː/ は完全に併合してしまうべきだったと思います。このあたりは、『新英和大辞典』第6版で /ɑ(ː)/ という、やや日和った表記を採用した竹林先生の意向が反映されているのかも知れません。竹林先生は大英和の編集会議で、これらの音は、発音は同じかも知れないが、母語話者の中で観念的に別のものであるから区別して表記する、という趣旨のことを仰っていたことがあるからです。

しかし、今や『ジーニアス英和辞典』第4版(大修館書店、2006年)のように、short o と broad a の区別をせずに一律 /ɑː/ と表記している学習英和辞典も現れています。アメリカ発音のみを扱う本としては、学習者の負担を軽減する意味でも、音素の項目数を減らして本書の分量を少しでも小さくするためにも、そして何よりも、読者に事実を知らせるために、これらは併合するべきだったと思います。これは何も、英語が変化したというわけではなく、アメリカ発音は昔からそうだったわけですからなおのことです。

その他に目立つ点としては、thought の母音(本書では /ɒː/)と broad a の区別がない地域の地図を、初版の『アメリカ地域英語辞典(Dictionary of American Regional English)』の発音解説にあったものから、Labov, Ash & Boberg, Atlas of North American English (Mouton, 2006) に基づいたものに差し替えられています。これは、より新しい資料に基づくものに変更したということになります(DAREの音声資料は1960年代、LABは1990年代)。但しこの記述も、short o ≠ broad a という分類を維持したままなので表す内容が中途半端になってしまっています。実際には、thought の母音 = short o でもあるわけですから。

その他、気になった点としては、参考文献一覧がこの本には付いていません。私は現在、在外研究中で手許に初版がないため、初版に文献一覧があったのかなかったのか、記憶をたどっても思い出せないのですが、この版に関して言えば、文献からの傍証はその都度脚注で触れるというMLA方式になったことと関係があるのかも知れません。文献一覧を省くことでページ数を削減したかったという要因もありそうです。

しかし文献一覧が付いていないということは、本書で英語音声学を学んだ人が更に進んで勉強したいという場合にそのためのガイドがないということを意味します。要するに、本書はあくまでも初級向けであり、英語音声学の学習も本書で完結するという読者を想定しているのだと思われます。

紙面は2色刷りになり、冒頭で綴り字と発音の関係を扱っていることと併せて、個々の音素の項目で、綴り字と発音の関係をビジュアルに示す役割を果たしています。このあたりは、学習者に対してなるべく優しくあろうとする、本書全体の努力の表れでしょう。説明が短く簡潔なのも、読者に対する負担感を減らす効果があると思われます。いずれにせよ、今回の改訂により、本書はその名が示す“初級”色を鮮明にできたと言えるでしょう。



コメントを残す