ɒ の採用に関すること
基本的に、「学習用英和辞典にイギリス発音の表記は必要か?」で提起した問題について、イギリス発音を排除するのではなく、正当に扱う方向で解決を図ったものである。
7 /ɑ|ɔ/ → /ɑː | ɒ/
この改変は、アメリカ発音とイギリス発音の両方の問題を解決するものである。
(a) アメリカ発音の ɑ を ɑː に変更
従来の表記では pom /pɑ́m/ と palm /pɑ́ːm/ (/l/ の入らない発音の場合)で区別されていたが、現実にはアメリカの大部分の発音では長さの区別がないため、両方を同じ /pɑ́ːm/ で示した。
この種の表記は、アメリカの辞書では遡ることが不可能なほどの遠い過去から使われていた。日本の辞書では『ジーニアス英和辞典』第4版(大修館書店、2006年)で実現済みであった。なお、日本の辞書の一部には pom の方を /pɑ́(ː)m/ と日和った表記をしているものがあるが、妥当なやり方だとは思わない。
(b) イギリス発音の ɔ を ɒ に変更
イギリス発音の従来の表記ではこの母音を fog /fɔ́g/、これとは別音素の /ɔː/ を caught /kɔ́ːt/ と、長音符号の有無だけで区別していた。しかし現実には、これら2つの母音は音質が大きく異なり、fog の方がかなり舌の位置が低い。
このような母音の長さと音質に関わる区別は、他に /iː/ (heat) vs /ɪ/ (hit), /uː/ (pool) vs /ʊ/ (pull) のようなペアがあり、この2対については、それ以前の、長音符号だけで区別していた表記(/iː/ vs /i/, /uː/ vs /u/)から記号自体も別のものを使う方式に既に変更済みであった。しかし、どういう訳か、このペア(/ɔː/ vs /ɔ/)の変更のみ置き去りになっていたのである。このため、イギリス発音に関して、heat vs hit, pool vs pull の母音は音質が違うが、fog vs caught の母音は音質が同じであるという誤解を与える可能性が高かった(と言うよりも、そうであると高らかに謳っているに等しかった)。日本の英語辞典で、/ɪ, ʊ/ を採用しているもののほとんど全てがこの問題を抱えていたのである。
日本の英語辞典の大勢がこのような表記になってしまっていた理由の1つとして、イギリス発音はアメリカ発音のついでに表記しているだけで、厳密さは求めないという方針があったという可能性もある。実際、かつて僕が仕事をしていた研究社の『カレッジライトハウス英和辞典』(1995年)の執筆規約には、アメリカ発音とイギリス発音の違いが弱音節の /ɪ/ と /ə/ のどちらが現れるかのみであるような場合には、改めてイギリス発音を表記することはしない、というものがあったぐらいなのである。これは読者に向けて開示はしていない「約束事」であった。『グランドセンチュリー英和辞典』でも同様である。
しかし、弱音節における /ɪ/ と /ə/ の区別は、混同したからといって単語の同定に支障が出るようなことはまず考えられないのに対して、/ɔː/ と /ɒ/ の区別については到底そうは言えない。そこでこれを是正したわけである。結果的に fog /fɒ́g/ vs caught /kɔ́ːt/ という表記上の区別をすることになった。
これは『ジーニアス英和辞典』第5版(2014年)で既に実現されており、南條健助「イギリス発音の/ɒ/の記号について」(G.C.D.英語通信 No.56 (2015年11月号 ), pp.16-17、初出は『英語教育』2015年7月号) でも解説されている。
9 /ɔː, ɑː | ɔ/、10 /ɔː, ɑː | ɔː/ → 9 /ɒː, ɑː | ɒ/、10 /ɒː, ɑː | ɔː/
これは国内の英和辞典に先例がない変更である。個人的には、あたかも『ジーニアス英和辞典』が、僕が果たすべき「宿題」としてこの変更を残しておいてくれたかのような感覚がある。
(a) 9のイギリス発音ɔをɒに変更
これは上記7と同じ理由によるので繰り返さない。
(b) 9,10ともにアメリカ発音を ɒː, ɑː に変更
結果的に、loss /lɒ́ːs, lɑ́ːs | lɒ́s/, talk /tɒ́ːk, tɑ́ːk | tɔ́ːk/ となった。
イギリス発音の ɔ を ɒ とした場合、9が使われる loss のような語で、アメリカ発音の第1候補 ɔː、イギリス発音 ɒ と表記して /lɔ́ːs, lɑ́ːs | lɒ́s/ としてしまうと、必要以上にアメリカとイギリスの発音の音質の違いが強調されてしまう。アメリカ発音の第1候補 /lɔ́ːs/ とイギリス発音 /lɒ́s/ の母音の音質は、厳密に同じというわけでは決してないが、わざわざ違う記号を使って示す必要がないほど似ているのである。そのため、ここではできれば共通する記号を使いたいというのが、この変更の1つめの理由である。
更に、アメリカ発音の中で、23 /ɔɚ/ の出だしと、9, 10 の第1候補 /ɔː/(新しい表記では /ɒː/)の音質は、同じ記号 ɔ で表すには不適切と感じられるほど違っている(9, 10 の方が低い)ために、別の記号を使って区別したいという2つめの理由もあった。
これは国内の辞書で先例がなかっただけでなく、アメリカの辞書でも、23 /ɔɚ/ の出だしと、9, 10の音には同じ記号を使っている(アメリカの辞書はIPAを使わないのが普通であるためこのような表現になる)。つまり今挙げた2つめの要因は無視されているのである。Longman Pronunciation Dictionary も、初版(1990年)では 9, 10 のアメリカ発音に /ɒː/ を採用したものの、2版以降では /ɔː/ に戻してしまった(初版刊行以前に一般に使われていた表記に戻したという意味)。
辛うじてイギリス発の学習辞書 Longman Dictionary of Contemporary English では行われているが、かなり勇気の必要な変更ではあった。しかし、今回の発音表記のシステム刷新の根本理念である「記号の音価を覚えれば、そのまま発音できる」を守りつつ、アメリカ発音とイギリス発音の異同関係をきちんと示すためには、これ以外の解はあり得なかった。
それだけに、これは、ある意味では hooked schwa の採用以上に反響が気になる改変なのである。
次回(最終回)では、その他の改変、および、積み残された課題について論じる。
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