イギリス英語の標準的発音について、現状をコンパクトに伝える本が出た。ロンドン大学の John Wells教授の高弟で、Summer Course in English Phonetics の現ディレクターとしても知られる Geoff Lindsey 氏によるものである。タイトルは English After RP: Standard British Pronunciation Today。
https://www.palgrave.com/jp/book/9783030043568
標準的イギリス発音は Received Pronunciation (RP、容認発音)と呼ばれ、イギリス英語を学ぶ人々のモデルになってきたが、今やイギリスの社会構造が大きく変わり、上流階層と結びつけて受け止められるRPは、本音では嘲笑の対象にすらなっているという。
今の標準的発音はむしろ「イギリス南部標準発音(Standard Southern British accent; SSB)」と呼ばれるべきもので、その中身はRPとはかなりかけ離れている。そのような発音の記述は、Gimson を Cruttenden が引き継いで改訂を続けている専門書 Gimson’s Pronunciation of English(最新の第8版は2014年)でフォローされているが、本書はこれを手に入りやすい形で提示したものであると言える。短いコラム集のような趣なので、音声学とイギリス発音になじみがある人なら2〜3時間で読めてしまうだろう。
SSBがRPとどの程度異なるものになっているかは、母音体系の対比を見るのが手っ取り早い。Standard lexical sets のキーワードによって紹介する。< の右側が旧来のRP、左側が Linsey氏の提案による、新しい表記である。
Kit: ɪ
Dress: ɛ < e
Trap: a < æ
Lot=cloth: ɔ < ɒ
Foot: ɵ < ʊ
Strut: ʌ < (ɐ)
Fleece: ɪj < iː
Face: ɛj < eɪ
Price: ɑj < ɑɪ
Choice: oj < ɔɪ
Goose: ʉw < uː
Goat: əʊ
Mouth: aw < aʊ
Nurse: əː < (ɜː)
Near: ɪː < ɪə
Square: ɛː < eə
Start=palm=bath: (ʌː) < ɑː
Force=north=thought: oː < ɔː
(Cure: ɵː < ʊə)
いくつか注釈が必要だろう。まず kit とgoat の記号は変更されていないが、これは必ずしも音価が同じであることを意味しない。むしろ、変化はしているが、それが従来の記号の守備範囲に収まっているだけと受け取るべきである。Kit はRPよりも低めで中舌寄りになっている。Goatについては、必要な変更(ou → əʊ)が既にかなり以前に行われていたために今回は変える必要がなかった。
Start=palm=bath も記号を変えていないが、やや高めになったために、むしろ ʌː で表記するのがふさわしい音質になっていると説明がある。記号を変更する決断をしなかったのは、ʌ の表記を使う strut の発音が変化の途上で安定しないため、この記号を使うとかえって誤解を招く恐れがあるのを考慮したからだということである。その問題さえなければ ʌː にしたであろうという判断から、上のリストにはこの表記も含めてある。
その strut の母音は、Daniel Jones がこの表記を採用した頃はこの記号の守備範囲にあったが、その後、前寄りに移動して ɐ あたり、あるいはそれを超えてaにまで近づいた時期もあった。ところが更にその後になって、恐らくは trap の母音が低くなる傾向が生じたことで、母音空間内の同じような位置に strut と trap が競合し、それを避けるために strut の方が「譲る」かのように動きを反転させて後ろ寄りに移動したと見られる。結果的に、今は ʌ が適切となる音価に戻ったということである。
Nurse の母音は音価の変化ではなく、記号を変えただけである。元々 əː と表記されていたものを (少し低めの母音を表す)ɜː に変えたものの、そもそもその変更には音声的根拠がなかったので、適切なものに戻したわけである。
最後に cure だが、これは独立して存在せず oː に一括される発音の方が普通と考えられるようである。
全体としては、前舌母音は低く、後舌母音は高く、低母音は後ろ寄り、高母音は前寄りに移動する、反時計回りの連鎖推移になっている。(アメリカの北部都市推移とは逆回転である。)
注目されるのは、記号上、長音符号の有無だけで区別されるペアがいくつも生じていることである。Kit vs near、dress vs square、strut vs start=palm=bath、foot vs cure がそれにあたる。つまり piss と pierce、Ken と cairn、cut と cart といった最小対は、母音の音質ではなく長さによって区別されていることを示す表記なのだ。現実には、音素配列上の制約により、このような最小対をなす単語はあまりない(foot vs cure については恐らく存在しない)のだが、基本的に全ての母音が音質によって区別されていたRPとは大きく異なっていると言える。
その他にも、現在のイギリスの標準的発音についての様々な情報が本書からは得られる。音声学を専門とする僕のような人間にとっては、ロンドンでよく聞かれる発音として薄々感じていたことの多くと一致するので納得感がある。その一方で、「ここまで来たか…」という驚きもあり、学習者が本当にこれを目標としていいの?という抵抗感を感じるのもまた確かである。
いずれにせよ、イギリス発音に興味がある人にとっては必読書である。但しこれに対応した教材は現状、存在しないので、この種の発音を習得するにはまだハードルがある。ELT業界の意識がこれから変わっていくのかどうか注目していきたい。

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