英語の音声に関する雑記帳

英語の発音について徒然と


発音学習における Lingua Franca Core 的な妥協について

以前の記事でも触れたように『文レベルで徹底 英語発音トレーニング』では発音学習のモデルをアメリカ西部発音に設定しています。もちろん、これは究極の目標とも言えるものであり、よほど発音習得の才能がある人でない限り、日本語なまりが多かれ少なかれ残るのが現実です。(そして、そのような才能のある人は、学習のために恐らく音声学を必要としないことでしょう。)

母語話者の発音をモデルとしても完璧は望めないし望ましくもないとして、国際語としての英語という観点から一種の「妥協案」としてイギリスの言語学者 Jennifer Jenkins がその著 The Phonology of English as an International Language (Oxford University Press, 2000) で発音学習上の目標として提唱したのが Lingua Franca Core です。Lingua Franca とは、文字通りには「フランク人の言語」を意味します。十字軍の時代から18世紀にかけて東地中海で通商のために用いられた混交言語を指す名称で、現在は「共通語、共通言語」を意味する一般名詞として用いられることの方が普通です。Lingua Franca Core を、その意味するところに合わせて和訳するなら「共通言語としての核となる特徴」となるでしょう。

Lingua Franca Core (以下ではLFCと略すことにします)について知った時に僕自身がまず感じたのは、英語使用はもはや非母語話者同士のものが主流となっていると指摘しながら、そのために最低限押さえておくべき特徴を英語母語話者が提案するというのは、自己矛盾かつ越権行為なのではないか、というものでした。当然のことですが、LFCは学界に議論を巻き起こしました。しかしその議論がどこに着地したのか、僕は寡聞にして知りません。

このような「妥協案」の具体的内容について論ずることはこの記事の目的ではありません。また、『文レベルで徹底 英語発音トレーニング』でも、これには全く触れていません。その理由を端的に言うなら「かえって学習上の負担が増すから」となります。

LFCは母語話者のモデルをピンポイントで達成することを求めないのだから、素朴に考えれば学習上の負担が減りそうに思えるかもしれません。しかし、そうはならないと僕は考えています。

例えばLFCでは、子音のうち /θ, ð/ は習得できなくてもよいとされています。これらは世界の言語の中では比較的稀な音であり、全員に要求すると学習者の負担の総量は大きくなるため、これらを必須要素から外すことには一定の妥当性があるでしょう。

しかし、これらの音が必要ないことを教えるためには、その前提として、これらの音が存在することを教えていなければなりません。つまり、/θ, ð/ が存在するということに、これらの音は必ずしも習得できなくてもよいということを上乗せして教えることになります。それは学習上の負担の増加に他なりません。もちろん、習得にかける労力は節約できますが、知的には負担の増加です。本に書くとしたら、その分、文章量が増えることになる訳ですから。

また、習得できなくてもよいとして、どのような音なら許容範囲なのでしょうか。それは必ずしも明らかになっていないと思います。[t, d] はいいのか、[s, z] はどうか、これらがいいのなら [ts, dz] はどうか。学習者の母語により、起こりやすい置き換えには傾向がありますが、母語が同じなら一つに定まる訳ではありませんし、根拠薄弱なままに、その中のどれかに決め打ちするのも問題があります。曖昧な指針は学習の邪魔にさえなると思います。

更に、指導者についてはどうなるでしょうか。もちろん、教師といえども母語話者をモデルとした発音を完璧に習得していることはまずありません。しかし学習者に対する妥協案と同レベルでいいのでしょうか。

また、教師が英語の発音についての知識を十分に備えることは、現状でもなかなか徹底できていないのが現実です。ここでも、LFCについての知識は上乗せになるので、ハードルはむしろ上がってしまいます。

そのような労力を上乗せする余裕があったら、一意に定まったモデル発音に近づけるための工夫に力を注いだ方がいいのではないでしょうか。僕はそのように考えています。

発音についての言説は、社会一般でも学界でも不必要に複雑化してしまっているというのが僕の印象です。それが発音についての健全な知識と技能の普及の壁になっているのではないでしょうか。それを可能な限りすっきりと見通しのいいものにすることでハードルを下げたいというのが、僕が常に考えてきたことです。僕の2冊の単著はいずれも、究極的にはそれを目的として書きました。



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