この3月に、日本では久しぶりとなる英語音声学の教科書が出た。橋本大樹『英語音声学を紐解く〜音声学の基礎から理論まで』(開拓社)である。

見落としがなければ、僕が2005年に『日本人のための英語音声学レッスン』(大修館書店)を出した後は、英語音声学のオリジナルの教科書は2019年の山根繁『コミュニケーションのための英語音声学研究』(関西大学出版部)があったのみだと思う。過去にこのブログで取り上げた『改訂新版 初級英語音声学』(大修館書店、2013年)は、初版の内容を根本から作り直しているので、ある種オリジナルと言ってもいいかもしれない(この本は今年1月に音声ダウンロード版として新装版が出た)が、いずれにしても、今世紀に入って英語音声学の教科書の出版が低調になってしまったのは確かだ。
出版事情が厳しさを増す中、今回この本が出たことは、そのことだけで喜ばしい。紙面を見る限り、これは印刷所による植字ではなく、PC上のワープロ文書をそのまま印刷しているようだ。このような形態でなければ出版まで漕ぎ着けることは難しかったのかもしれない。
『英語音声学を紐解く』の目次は次の通りである。
第1章 英語音声学の前提:音の物理的正体と音声の抽象化
1.1 音声学とは
1.2 個別の音に分解する:分節音
1.3 抽象化して音を議論する:ラベルとカテゴリ
1.4 音素の探し方
1.5 音素としてまとめられる分節音の関係:自由変異と条件変異
1.6 音素の実用性と心理的実在性
1.7 演繹的に発音を議論する
1.8 綴りと発音記号
1.9 まとめ
第2章 英語の子音2.1 音声器官
2.2 調音方法:共鳴音と阻害音
2.3 調音場所
2.4 発音記号の定義
2.5 子音音素と条件変異
2.6 語境界における同化現象
2.7 削除
2.8 まとめ
補足① 日本語の子音と英語の子音
第3章 英語の母音3.1 共鳴と母音産出のメカニズム
3.2 基本母音と母音図
3.3 舌頂点について
3.4 アメリカ英語とイギリス英語の母音体系
3.5 Wellsの語彙目録
3.6 発音記号の多様性
3.7 母音音素と条件変異
3.8 調音点のゆれ
3.9 まとめ
補足② 辞書に掲載されている発音記号通りに発音すれば良いわけではない
補足③ 日本語の母音と英語の母音
第4章 音のまとまりと韻律4.1 音節
4.2 母音と子音の定義
4.3 音節の内部構造
4.4 音素配列法則
4.5 音節境界
4.6 強勢
4.7 フットと韻律階層
4.8 同化と弱化
4.9 リンキング
4.10 まとめ
補足④ 日本語の音節構造と英語の音節構造
第5章 地域方言5.1 方言が生まれる理由
5.2 言語が変化する理由
5.3 音変化と発音のゆれ
5.4 地域方言とそれを動機づけた音変化
5.5 方言間のコミュニケーション
5.6 方言の持つ社会的意味
5.7 まとめ
第6章 社会方言6.1 社会言語学における“ゆれ”
6.2 マクロな社会特性と社会方言
6.3 ローカルな社会特性と社会方言
6.4 スタンスと社会方言
6.5 話者内のゆれ
6.6 まとめ
第7章 綴りと発音7.1 書記素
7.2 書記素と音素の関係
7.3 英語において綴りと発音がずれている理由
7.4 古の発音の再建
7.5 綴りが発音に与える影響
7.6 まとめ
補足⑤ 大母音推移 (Great Vowel Shift)
第8章 音声と心理8.1 心に気圧変化が伝わる時
8.2 心は音をどの様に記憶・処理しているか:使用基盤モデル
8.3 音変化のなぜに答える
8.4 まとめ
本書は変異に2つの章を充てていたり、音声と心理についての章を設けていたりして、狭い意味での英語音声学を超えていこうとする意図が見える。
変異に多くの紙面を割いているのは、著者がニュージーランドという、英語の母語圏の中では周縁に位置するところで学んだことに関係があるのかもしれない。僕から見ると、せっかくそのような経歴があるのだから、地域的変異を扱う第5章の中でニュージーランド発音の体系全般を記述してもよかったと思う。この章は部分的な変異の様相を順番に扱っているのだが、それだけでは変異の全体像が見えにいからだ。
目次をよく見ると、狭い意味での英語音声学を十分に網羅できていないのが気になった。たとえば、イントネーションを扱ったセクションが見当たらない。また、音素配列法則を扱っているものの、本文を読むとやや細かい話になるが鼻腔解放・側面解放についての記述がない。後でも触れるが詳しく見ると他にも「落ち」がある。
このことは、本書を教科書として使おうとした時に問題になるだろう。英語音声学の入門段階では、表層の音声現象を満遍なく扱うことが必要で、発展的な話や抽象論はそれに対するプラスアルファでなければならない。
用語にこの分野の慣習と違っているものが多いのも気になった。調音位置(調音点)を「調音場所」としたり、調音様式(調音法)を「調音方法」としているのは無用な変更だろう。
暗いLの副次調音を軟口蓋音化と言う代わりに「暗音化」として、この音の構えを描写しない用語にしてしまう理由は何かあるのだろうか。更に言えば、本書には「副次調音」という用語が出てこない。当然ながら、その解説もない。これは大きな抜けであると言わざるを得ない。
母音の音質を調節する要素としての舌の一番高い部分のことを「舌頂点」としているのは、舌先を使う子音を大きく括る用語として音韻論で使われることの多い「舌頂音(coronal)」と紛らわしい。そもそも、厳密な「舌の一番高い部分」が母音の音質に直接対応する訳ではないことを認めながら、その後も「舌頂点」という独自の用語を繰り返し使い続けているのは妥当でない。
用語の不注意な(誤った)使用も目立つ。例えば、母音についてあちこちで「調音」「調音位置」のような言い方をしているのは問題である。「調音」は、狭い意味では主に子音における調音位置での狭めのあり方を、広い意味では鼻音や側音のように空気が外に出る経路の違いまで含めたものを指す。母音には「構え」はあっても調音はないため、母音について調音を語ることはできないのだ。
イントネーションを扱うセクションがないことを上で指摘したが、本書はプロソディーの扱いが弱いと言わざるを得ない。§4.6強勢(141〜150ページ)において、イギリス式とアメリカ式の強勢の扱いの違い(ここに書いたような問題)を踏まえない、混乱した記述を行なってしまっていることにそれが現れている。
これらの難点は、参考文献に一般音声学・英語音声学の概説書がほとんど挙がっていないことと関係がありそうである。
英語音声関係の本を見る時、僕はつい自分の『日本人のための英語音声学レッスン』が参考文献に含まれているかを確認してしまう。含まれていない場合、僕の努力が足りなくて十分に普及できなかったのだなとか、その著者のお眼鏡にかなわなかったのかなと落胆させられるだけで、見落とすなんてけしからんと思うことはない。
しかし本書の場合、僕のものだけでなく、和書の英語音声学の本が一冊も含まれていないのだ。英書もわずかに Gimson が挙がっているだけ。これは流石にけしからんと言うべきなのかもしれない。
一般音声学についても、Ladefoged はあるが Catford がない。川原繁人『ビジュアル音声学』(三省堂、2018)は挙がっているが、この本は音響分析やその他の実験的手法の解説が占める割合が大きいため、本書にとって助けになる部分は少ない。
これでは慣習を踏まえた用語の使用ができないのも無理はないし、不注意な扱いがあったり、扱う内容に落ちがあるのもこれが原因だろう。
その点、僕は自分の本を書く前に、一般音声学の定番教科書だった Ladefoged の A Course in Phonetics (1993年刊の第3版)を翻訳する機会(『音声学概説』として1999年に大修館書店から出版)があったのは幸運だったと思う。翻訳するために要求されるレベルでの読み込み方から得るものは多く、これをしていなかったら僕はまともに本を書けなかっただろう。
本書に話を戻すと、著者はまえがきで「本書は少なくとも現在出版できるベストの状態であり、刊行した後も更に成長して別の形で改めて知識を共有できれば良い」(ⅳページ)と書いている。本書は様々な難点を含む本になっているので、是非ともそうして欲しい。そのためには、新しい研究だけでなく、過去の蓄積から大いに学んでもらいたいと思う。僕よりも四半世紀も若い著者なのだから、「本書の読者の中で(中略)鋭気溢れる研究者が現れてくれればうれしい!」(119ページ)などと書く前にするべきことはたくさんあるのだ。
(他にも指摘したいことは山ほどあるが、それはここに書くよりも、著者に直接伝えた方がフェアだろう。そういう機会があるかどうか分からないが、機会以前に、指摘すべき部分を整理してまとめなければならない。それなりにエネルギーを要する作業なので、すぐには準備できないかもしれない。)
なお、同じタイミングで、本書と同じ開拓社から松坂ヒロシ・西原哲雄『ブックレット英語音声学・音韻論概説』も出ている。こちらは簡素な教科書で、半期の授業を想定して書かれたものだという。僕の先生世代と少し上の世代の著者が現在の大学という環境の要請に応えた教科書を作ってくれたことは、もちろん有意義である。
しかし、日本における英語音声学研究の行く末を考えると、次の世代が教科書を出してくれたことに意義を見出したい。色々と足りない部分があるのはここまで指摘した通りだが、研究分野が発展していくためには、継続されないことには始まらないのだから。
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